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「これは偏見だけど、○○な奴はだいたい性格が悪い」という言い回し

 自分の差別意識を表明する最悪の方法の1つだと思う。自分の考えを偏見と認めておきながら、それを垂れ流すことで偏見を肯定する。これでは最初の自己分析が何の意味もなさない。「「それは偏見だろう!」と叱られないように予防線を張りながら、ちゃっかり偏見だけは垂れ流したい」という歪んだ欲求を満たすための、醜い表現だ。

 表題の言い回しは「偏見だけど、~~そう」と推量表現につながることのほうが多いかもしれないけど、偏見だと認めていながらそれを垂れ流すという自己矛盾の醜悪さは同じことだ。

  この言い回しを使う人は、「こういうこというと差別だの偏見だのって言われるんだろう、そんなことわかってるよ。俺はその問題に正解できる社会性を持っている。ほら、これでいいだろ? だから言わせてもらうけど、○○という属性を持つ人間はクズで性格が悪くて頭が悪くてセンスがなくて臭くて嫌われてしかるべきなんだ」と言っているのに近い。

「――だけど」の部分は、せいぜい自分の主張を補強するための譲歩にすぎない。

 自分が抱いているのは偏見だ、という問題意識が十分に深刻であれば、こんな風に発言しようとは思わない。黙って胸のうちに秘めるか、あるいはもっと自分の差別意識と葛藤するように話すはずだ。 

 本当に偏見や差別意識のない人間などいない以上、自分の差別意識に気付いたときにどれだけ真摯にそれと向き合えるかが重要になるわけだけど、表題のような言葉はそれを放棄するものだ。