むやみやたらに釣り認定をするな

 

http://anond.hatelabo.jp/20131016191631

このエントリがなぜか釣りだ釣りだという反応を受けているので思ったことを書いておく。

 

 たとえば現実のコミュニケーションにおいて「マジレス」は、相手のことを本当に信じているかとは無関係に、礼儀として当然のことである。もし相手の言っていたことが嘘だったとしても、「マジレス」をした側よりも「嘘をついて人をたぶらかそうとした側」のほうが恥ずべきだとされるのではないだろうか。

 つまり「ネタにマジレス」が恥ずかしいというのは、釣り文化のあるネットという、倒錯した文脈の中で成り立っている特殊な理屈なのだ。それは「わざと馬鹿のふりをしている書き手を、本当に馬鹿だと思って突っ込むのは、他人を馬鹿だと思っている自分をさらけ出していて恥ずかしい」という理屈だ。またそれは、「本気で書いてないただのコピペ改変にマジレスとか恥ずかしい」に代表されるように、マニアックな知識の欠如を恥として、騙されることを悪とする、偽悪的な文脈だ。

 

 しかし、相手が真剣な発言の体で書き込んでいるときに、相手の話が嘘だという確証もないのに、「お前は嘘をついているだろう」と言うのは本来とても失礼なことだ。だから書き手を対等な存在として尊重するなら、相手のいうことを真実と仮定して返事をするのが当たり前だ。

 そのうえで内心では「本当かどうかはまだわからない」という中庸の態度を保っていればいいだけの話で、自分の中で情報の確かさを区別してさえいれば何の問題もない。

 

 

「はいはい釣り乙」とまともに取り合わない風を装えば、もしもそれが釣りじゃなかった場合には、書き手をひどく傷つけてしまうかもしれない。書き手に向かって「お前が抱いた感情もお前という人間も存在しないんだよ」と言っているようなものなのだから。自分の心に保険をかけるためだけにそんなことを言うのは全体幸福の収支がまったく釣り合っていない。

 そもそも釣られたくないなら最初から言及せずにいればいいわけで、それでも釣り認定がしたいというなら、それは「その書き込みの信ぴょう性を落としたい」という動機があるとしか思えない。

 しかし、釣り認定に妥当性があるなら書き込みの明らかにおかしな部分を指摘すればそれで済むのだから、「釣り乙」とだけ書き込む理由は、やはりない。

 

 たとえ書き込みが嘘だったとしても、あてずっぽうに毎回釣り乙とレスしていたのがたまたま当たっただけならインチキ占い師と変わらない。けっきょく「釣り乙」というだけのレスをすることには、自己満足か書き手を攻撃する空気を醸成する意味しかないのだ。

「これは偏見だけど、○○な奴はだいたい性格が悪い」という言い回し

 自分の差別意識を表明する最悪の方法の1つだと思う。自分の考えを偏見と認めておきながら、それを垂れ流すことで偏見を肯定する。これでは最初の自己分析が何の意味もなさない。「「それは偏見だろう!」と叱られないように予防線を張りながら、ちゃっかり偏見だけは垂れ流したい」という歪んだ欲求を満たすための、醜い表現だ。

 表題の言い回しは「偏見だけど、~~そう」と推量表現につながることのほうが多いかもしれないけど、偏見だと認めていながらそれを垂れ流すという自己矛盾の醜悪さは同じことだ。

  この言い回しを使う人は、「こういうこというと差別だの偏見だのって言われるんだろう、そんなことわかってるよ。俺はその問題に正解できる社会性を持っている。ほら、これでいいだろ? だから言わせてもらうけど、○○という属性を持つ人間はクズで性格が悪くて頭が悪くてセンスがなくて臭くて嫌われてしかるべきなんだ」と言っているのに近い。

「――だけど」の部分は、せいぜい自分の主張を補強するための譲歩にすぎない。

 自分が抱いているのは偏見だ、という問題意識が十分に深刻であれば、こんな風に発言しようとは思わない。黙って胸のうちに秘めるか、あるいはもっと自分の差別意識と葛藤するように話すはずだ。 

 本当に偏見や差別意識のない人間などいない以上、自分の差別意識に気付いたときにどれだけ真摯にそれと向き合えるかが重要になるわけだけど、表題のような言葉はそれを放棄するものだ。